次は、中世の数学者デカルトが書いた名作、「哲学の原理」のまえがきです。彼は、ボヘミアの王女エリーザベトのことを敬い慕ってまして、この哲学の原理の前書きも、エリーザベト王女への手紙の形式になってます。 今日は、その哲学の原理の前書きを和訳してました。 ラテン語が不明確なところは、一応日本語で訳しといて、ラテン語も一緒に書いときました。単語の場合、2種類書いてあると思いますが、1番目のものは原文のそのままを、2番目のものが、もしその単語が動詞なら原型を、名詞なら同じ数の1格を書いときましたので、日本語が不明確ならラテン語の方を読んで、あ、これだっけ、って感じてください。多分英語と似てますので、ラテン語できなくても大体はわかると思います。 これから文のあっちこっちの文法とかをチェックしなければならないですが、一応今終えたそのまま書いときます。w 神聖ローマ帝国のプファルツ選帝侯であり、 ボヘミアの王となるフリードリヒ5世の長女となる 高貴なエリーザベト王女様に 高貴なる王女様、今まで出版された私の本で私が得た一番大きな成果は、恐れ多くも王女様がその本たちが渉猟する価値があると思いになったことと、それをきっかけとして私が王女様と交流することを許していただいたことと、これで私が王女様のとても優れた資質を存じたことであります。私は後世の期間とされるほど王女様の資質が優れたと強く信じております。王女様に敢えてへつらうかもしも私が十分存じないことを申し上げるのはきっと礼儀正しくことではないのでしょう。特に、私が真理の基盤を立てろうとする言葉ではもっとそうでしょう。私は純真で単純な哲学者の判断が、ただへつらう人たちのもっと華麗なる阿附よりは王女様の高貴な謙譲にもっとよく似合うと思っております。ですから私はただ私が理性と経験を通して真実だと認識することだけ書こうとしまして、今ここでこの本をはじめようとするところでも、ほかのところでも、同じ方式で哲学を修行しようと思っております。 真の徳等と外観上の徳等の間には大きな差があります。そして真の徳等の中にもまたものごとに対する厳密な認識からなった徳等と無知とついておる徳等の間には大きな差があります。私が外観上の徳と申し上げるのは、そんなによく起これない不徳等であり、それよりよく知られておる不徳たちと対立されたものらです。外観上の徳等は他の徳等から、その中間くらいになる徳等よりももっと遠く離れておるので、本物の徳等よりももっと称賛の声が高いことが多いです。したがって、怖がって危険から逃げる人たちが、無鉄砲に振舞う人より多いことから、恐怖という不徳に無謀さが徳として対立しており、一般的に真の勇気よりもっとほめられます。同様にぜいたくな人たちがけちけちしないひとたちよりもっと仰がれます。また、神に対する畏敬の心に対しても、迷信を煽動する人たちや偽善者たちよりもっとやさしく大きな信望が得られる人は誰もいないのです。 でも真の徳等の内でも、純粋な正しさに対する認識からでなくある誤謬から起因するものもたくさんあります。ですから、単純さからはやさしさが、怖さからは畏敬の心が、切望からは勇気が呼び起こされるのです。それぞれ違う名称で呼ばれておるように、それらはお互い違うものです。でも純粋に正しさに対する認識から呼び起こされる純粋で堕落のしなかった徳等はみな同一な1つの本性を持っており、賢明さという1つの名前に入れられております。なぜなら、できる限りいつも自分の理性を正しく使おうとする、そして自分が最善だと認識した全てを従おうとする強固な意志(firmam & efficacem voluntatem, firma & efficax voluntas)を持っておる人は誰でも実際に彼の本性が許す範囲ないでは賢者であるからであります。こういう状態の徳等が他の状態の徳等より、つまり不徳等より一緒にあるからもっと目立つ徳等よりもっと優れた徳等ですのに、一般の人々によく知られてないから、それらは十分にほめられないことも多いです。 その他に、私が上で申し上げた賢明さ(sapientiam, sapientia)には2つのが要求されますが、その1つが理性の知覚(perceptio intellectus)であり、他の1つが意志の性向(propensio voluntatis)です。人たちは意志だけ持っていればある程度は十分にできますけど、賢明さの問題まで行きますと難しくなります(eius quidem quod a voluntate dependet nemo non est capax, sed quidam aliis multo perspicaciorem habent intellectum)。そして、たとえ本来聡明さが足りない人たちに対して彼等が知らないのが多くいとしても、正しさに対する認識で自分等を導くのならどれ1つも残さないようにして、自分等が正しいと判断する全てを修行しようとする強固で変わらない意志だけ持っていても、自分なり賢者にもなれるし、またそうして神に喜ばれるのだけ十分でしょうが、正しく行動しようとすることに対するとても強固な意志ととても聡明な能力と真理認識に対する極度の関心を兼備しておる人たちは彼等よりもっと優れた人たちです。 王女様の優れさの中に真理認識に対する極度の関心がおかれてるのはこれから自明です。王宮の庭園での遊戯も、少女たちを無知に転落させる慣習的な教育も王女様が学問を探求することに対してはどんな障害もなれなかったのです。そして王女様が学問の全ての秘密をとても深く洞察して、とても短い時間内で正確に認識した事実もまた王女様のとても優れた、そして他の人たちと比較できない聡明さを見せておるのであります。私は自分なりそれに対したもっと確実な証憑資料を持っております。王女様は私が存じる限り、出版された私の全ての文等を完全に理解した雄一な方です。なぜなら大体の人たちは、それにとても優れて学識のある人たちさえ、それらがとても不明確だと思っておりますからです。ほぼ全ての人たちに対してこういうことは控えられないことでした。つまり、形而上学を研究する人たちは幾何学のことがすごく嫌いで、幾何学に優れた人たちは私が書いた形而上学が理解できません。私は王女様が私が書いた全てを文を種類に構わずによく理解した雄一な方だと思います。ですから私は王女様は他の人たちと比べもできないって申し上げたのです。長く勉強した老いたインドの学者でない、若い王女様が、それに年や外見でみても、知恵なるミネルバやミューズが連想されるのでもなく、むしろ優雅なグレースが連想される王女様がそのように全てのものごとに対して多様で完全な知識を持ちになったのを考えると、私はどんな称賛の言葉を使えばいいのか困るようになります。 終わりに、認識の側面にだけでなく意志の側面に対しても、私は王女様の人格が光を出すこと以外は、どんなものも、絶対的な、そしてとても優れた賢明さのために要求されないことを存じます。なぜなら王女様の人格では高貴さとともに、限りなく迫ってくる運命の試練にもかかわらず、決して変わらない、卓越な大様さと仁慈さが見えるからです。そしてそれは私を完全に圧倒して私に私のこの哲学を私が王女様の中で一番敬い慕う賢明さに献呈すべきだと思わせ(哲学は賢明さに対する探求なだけですから)、また哲学者としてちっとも変わらないことで、高貴な王女様の高邁さの献身的な僕(しもべ)としての名声を得ることを望むようにしました。 デカルト Continue reading 「哲学の原理」のまえがき